日刊サンクラシファイド
コラム担当者
アーカイブ
ホーム > コラム > 無念

コラム

無念
更新日: 2010/02/26 | コラム名:龍馬ゆかりの人々
 武市半平太(瑞山)(一八六一・文久元年)は「土佐勤王党」を結成した。龍馬は(二七才)で加盟した。

 山内家は徳川幕府の厚い恩顧を受けていたにも関わらず、倒幕の志士が勃興してきた。幕府に異を唱える今風に言えばヤングパワーが勃興し、土佐藩の恩顧に連なる藩士達は激昂した。

 吉田東洋は、土佐藩執政として勤王党に憎しみを抱いていた。文久二年(一八六二)四月八日の夜、土佐勤王党の壮士達によって暗殺された。この時、龍馬が土佐に居たとすれば後に大弾圧の嵐が吹く土佐藩によって捕縛後に切腹、又は打ち首となる可能性があった。ある歴史家の見地から見ると、龍馬はその気配を察し、勤王党から離れ三月二四日、一人で脱藩して行ったと言われる。

 吉田東洋を倒して、意気健康の勤王党に大弾圧の大鉈が振り下ろされるとは夢にも思わなかった。

 武市は龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎等の脱藩者に対して、武市は一言も無く、土佐に残る。

 大挙して脱藩すれば、一種の無頼漢として世の批判され、目的の大政奉還には逆の効果になるとして一人土佐に留まった。

 武市の壮烈なる意志に対して、藩主山内容堂は死罪を命じた。武市は打ち首にならず、切腹を命じられたことを誇りに思ったと死に面して述べた。それがせめてもの彼の武士の誇りと思い死に向かった。受容として死に臨んだ。

 革命の後には、日にあたる人、名も無く歴史の影に消えていく人、それらは世の習いと言え、一抹の寂しさを感じる。三十七才の生涯を歌に託した。

 花は清香によって愛せられ
 人は仁義をもって栄える
 囚われの身がどうして
 恥ずかしいことがあろう
 私はただ真心を貫くだけだ


 藩主、山内容堂は、野根山二十三士の助命運動もむなしく、藩命により切腹を申した。

 武市瑞山一党は改革の夢破れて謀反人として汚名を長く伝えられた。革命には影と光がある。陰の人達に歴史の陽があたるまでには百年も費やさなければならない事もある。
<<前の記事 トップへ 次の記事>>