南加福島県人会ピクニック
2019-10-05
慈善団体として新たなスタート
南加福島県人会が、9月1日、トーレンスパークで、毎年恒例のサマーピクニックを開催し、会員や他の県人会代表ら80人が参加した。今年、創立111周年を迎えた同県人会は、慈善団体としての新たな活動を開始した。
1908年に創立された南加福島県人会は、活動を次のステージへと進めた。 ピクニック当日、同県人会初の女性会長に就任した熊田るみさんが、新たな活動について発表した。
「今年4月に、南加福島県人会は501(c)(3)、慈善団体として認可されました。2011年の震災での原発事故で環境が破壊され、その教訓から、きれいな水や空気がいかに大事で愛おしいものなのかを、福島県人会は身にしみて感じさせられました。今後は、福島県の震災被害へのチャリティ活動の継続と、将来の環境を守る保護活動をしていきたいと考えております」
同県人会は、100年を超える県人会史の中で、新年会やピクニックなどの会員同士の交流の場を提供する他に、日本各地で発生した災害の復興支援などに関わってきた。特に2011年の東日本大震災では、福島県にも未曾有の被害がもたらされた。
同県人会は、震災発生から8年経った現在もオレンジ郡で開催される復興支援イベント「Walk the Farm」、ブリッジUSAの夏祭り、二世ウィーク祭りなどで被災者を支援する義援金を募っている。
また福島県からの企業がロサンゼルスで商品即売会を開催する際には手伝ったり、会津木綿を使った手作りグッズを色々なイベントで販売し、福島県の魅力をPRしている。
熊田会長によると、10月5日(土)は、TOKYO CENTRALのガーデナ店で福島県喜多方市の五十嵐製麺が作る「ラーメン」(いろいろな味あり)の試食販売を手伝うという。
手作りの会津木綿を使ったバッグ
南加福島県人会ホームページ
https://scalfukushimakenjinkai.org
ズーズー弁のラジオ体操をする参加者たち
サマーピクニックにはスイカ!BBQのランチの後のデザート
3人のレジェンド
(左から)小山信吉さん、ポール坂内さん、ドン・セキさん、熊田るみ南加福島県人会会長
9月1日のピクニックでは、参加者たちは、ズーズー弁ラジオ体操、ランチ、ゲームなどを楽しみながら友好を深めたが、南加福島県人会の3人のレジェンドにも会える機会となった。
レジェンドの一人、ドン・セキさんは、第2次世界大戦中に日系アメリカ人2世たちで構成された第442連隊戦闘団に所属し、ヨーロッパ戦線で戦った退役軍人だ。
「Go For Broke!」を掛け声に、幾多の厳しい戦況の中を戦った第442連隊戦闘団だが、中でも「失われた大隊、テキサス大隊の救出」は広く知られている。
1944年10月、テキサス大隊はドイツ軍に包囲され、彼らを救出するために様々な作戦が取られたがすべて失敗していた。そこでルーズベルト大統領は日系人部隊に救出命令をだし、セキさんもその任務についた。
211人のテキサス大隊は救出されたが、第442連隊戦闘団が払った犠牲は、800人を超える死傷者だったというから、どれほど困難な任務だったかが伺える。
その後も戦いは続き、セキさんは任務中に左腕を失った。
日米開戦後に日本移民たちは「敵性外国人」とみなされ、一世(当時は日本人)だけでなく、アメリカで生まれた二世たちも強制収容所に送られ差別された。この第442連隊戦闘団などの多くの日系人兵士らの多大な犠牲と貢献が、戦後の日系人や日本人に恩恵をもたらした。
レジェントの二人目は、ポール坂内さん。日系人初のカリフォルニア州下院議員に選出され、1963年〜80年まで務めた。1967年〜75年まではカリフォルニア州知事に選出されたロナルド・レーガン知事(当時)と共にカリフォルニア州のために働いた。1981年には大統領に就任したレーガン大統領から、Chief Director of the Memorial Affairs Department of the Veterans Administrationに任命されるなど、レーガン大統領からの信頼が厚かった。
坂内さんは、戦時中は、第442連隊戦闘団に所属し、その後、アメリカ陸軍情報部(MIS)としてニューギニアやインドネシアに駐留し、日本軍兵士への降伏を呼びかけるなど、様々な場面で通訳として任務を果たした。
坂内さんと福島県をつなぐエピソードが、『南加福島県人会創立百周年記念誌』の148項、『南カリフォルニア移民の軌跡 波濤の向こうに』(福島民友新聞社報道部・藍原寛子著)に記されている。以下、抜粋する。
「一方、米国でもおけいブームが巻きおこった。墓に隣接するゴールド・トレイル・ユニオン校の敷地内に69年8月、日本移民100周年記念碑が完成。建設には、喜多方出身の下院議員ポール坂内が尽力した。坂内の友人で当時のカリフォルニア州知事で後の米大統領ロナルド・レーガンのほか、日系人や関係者約3000人が出席、日本列島をかたどった記念碑を囲んで盛大に完成を祝った。」(第一部 会津娘おけい物語10 墓建立(下)福島民友新聞2017年1月26日掲載)
この会津出身の「おけい」さんは、1869年に、北カリフォルニアのゴールド・ヒルに入植した日本人移民団の一員で、これが日本人の初めてのアメリカ本土への移民という。
会津藩が戊辰戦争に敗れ、会津藩と貿易をしていたプロシア人の武器商人、ヘンリー・シュネルが会津藩士を率いて農場(「若松コロニー」と呼ばれる)を開拓した。この時、日本人の妻おようと娘、そして子守の「おけい」も同行した。農場開拓は失敗し、若松コロニーを去る者、その地に残った者がいた。おけいさんはその地に残り、19歳で亡くなった。この「おけい」を追悼するために、福島県とゴールド・ヒルに墓が建立された。
三人目のレジェンドは、小山信吉さん。小山さんは現在、南加福島県人会顧問、大日本農会南加支会会長、南加庭園業連盟顧問などを務めており、長年に渡り、日米友好のため、日系コミュニティ発展のための活動を行っている。
「おけい」に関連するエピソードの一つとして、福島民友新聞社報道部・藍原寛子記者に「おけい」の話をしたのは、小山さんと星峰男同県人会会長(当時)だった。その後、藍原記者は日系福島県人移民史に関心を持ち、取材をするために来羅した。そして、小山さんの案内で「おけい」の墓に行った経緯がある。
この結果、『波濤の向こうに』の連載が始まり、日本の人々にも日系移民史を広く知ってもらうきっかけとなった。
今年は、若松コロニーが形成されて150周年。6月には会津松平家第15代目、松平親保さんも参加して記念式典が行われた。この式典には小山さんはじめ、南加福島県人会会員らも出席し、当時の会津藩士やおけいたちに思いを馳せた。
=文・金丸智美、写真・冨山敏正

