JANMへ行こう!! vol.23 - 二つの祖国のために戦った帰米二世から話を聞く1
今月のガイド
安田ヘンリー章一郎 さん
アメリカ生まれの帰米二世。10歳のときに日本へ養子として送られて、二重国籍のため海軍兵学校に入学。戦後はアメリカに戻り、朝鮮戦争に戦争処理のためアメリカ兵として徴兵される。その後、日本勤務になり、軍隊で通訳として働きながら戦後の日本の復興を手助けする。再びアメリカに戻りビジネスを展開。引退後は日系社会やJANMでボランティア活動に力を注ぐ。
―安田さんは10歳のときにアメリカの両親の元から父方の祖父母が住む山口県上関へ養子として送られて、日本語がわからないのに、いきなり日本の小学校に入れられたそうですね。
「最初は1年生から始める予定だったけれど、祖父が『お前は10歳にもなるし4年生から始めるべきだ。1年生とは何事か。これはもう安田家の恥どころじゃない、村中の恥だ。泣いてわめいてもいいから4年生に朝から晩まで入れとけ』って校長先生の所に怒鳴り込んで行ったんです。
近くにハワイから戻った年上の女性がいて、彼女が私に日本語を教えてくれました。境遇が同じだったから、気持ちを分かってくれてね。彼女のおかげです」
―小中学校で成績優秀だったことで1945年に将校候補生として海軍兵学校に入学しました。
海軍兵学校の制服を着て短剣を付けた安田さん
「海軍兵学校は日本の海軍将校を育てる“最高峰の学校”でした。当時、特攻隊や士官学校とかあったけれど海軍兵学校は、東郷平八郎時代から立派に育った大学です。そこに入って卒業するのが男子として最高の夢でした。帝大とかでなくてね。みんな、すごく憧れたもんです。後になって文献を読んで知り ましたが、1945年に沖縄はもう陥落し、本土上陸が目前に迫っていたんです。どんどん負傷者は出るし、この時期、日本の海軍上層部は日本の敗戦が見えていました。それで最後の手段として、大学生をみんな徴兵して、アメリカ軍が本土上陸するときの防衛のために日本列島の海岸にずーと防衛線を作ったわけです。もちろん最後の自殺的な行動なんだけどね。
そして“その次”を考えたとき、負けても戦後の日本は必ず復興しなければならない、その人材である中学校の4、5年生を死なせてしまうのは忍びないということで、昔の旧制中学校の4200人の中から1200人を選んで、生き残りの人材としたんです。それが我々なんですね。私たちは、いわゆる生かされたんです。
あるとき私たちがボートで訓練してると、隣では特攻艇の訓練をしていました。日本には特攻隊が乗る飛行機はなかったので特攻隊は身動きできなかった。私と同じ年頃の少年たちがベニア板で作ったボートのようなものに身をくくり付けてそれに爆薬を積んで…アメリカの戦艦に突っ込んでいく。彼らは死ぬために訓練して、私たちは生かされるために大事に育てられたんです…」
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もっと知ってJapanese American!
「日系アメリカ人の歴史キーワード」
1868年、元年者と呼ばれる海外への初めて日本人労働者から始まった移民。日系アメリカ人の歴史をより深く理解するためのキーワードを、今回は紹介する。
サンフランシスコ大地震1906年4月にサンフランシスコを襲ったマグニチュード7.8と見られる大地震。この地震を機に、多くの日系アメリカ人が南下して南カリフォルニアへ移り住むようになった。
典型的な写真花嫁=1910年(M. Koga, Courtesy of Bishop Museum)
写真花嫁相手に会うことなく見合い写真だけで結婚を決めてアメリカに渡ってきた女性。日米間で1908年に紳士協定が結ばれ日本からの移民が規制された。しかし、すでにアメリカで暮らす日本人が日本にいる家族を呼び寄せることは認められていた。当時、アメリカに移民したのは独身男性が多く、日本人女性が少なかった。アメリカの多くの州ではアジア系と白人の住民の結婚を法律で禁じていたため、見合い写真を出身地に送り、 知人に結婚相手を紹介してもらった。1920年に日本政府が禁止するまで続いた。外国人土地法1913年にカリフォルニア州で「帰化不能外国人」の土地所有が禁止された。抜け道として、法人組織を通して土地を購入したり、アメリカで誕生した子供(二世)はアメリカ市民権があるので彼らに土地を所有させ、親(一世)はその後見人として子供から土地を賃借したりという方法があった。しかし、1921年の土地法改正により、法的な抜け道はなくなった。
排日移民法1924年7月にアメリカで施行された移民法のこと。各国からの移民の年間受け入れ上限数を1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもの。移民制限規定そのものは日本人のみを対象としていないが、この法律成立により日本人の移民が全面的に禁止された。
父親と一緒に鞄を持つ2人の兄弟=1942年5月2日 (Dorothea Lange, Courtesy of National Archives)
大統領令9066号第二次世界大戦中の1942年2月19日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが署名・発令した大統領令。これにより特定地域を軍管理地域に指定する権限が陸軍長官に与えられた。「敵国を祖先に持つ者」を保護するという名目で、西海岸地域に住む日系人全員、ハワイの日系人の主な人々、ドイツ系とイタリア系の一部の人々が、収容所に送られる。約12万人の日系人が強制収容され、1946年まで続いた。修正移民法1952年、 排日移民法の事実上の撤廃となった移民法。マッキャラン・ウォルター移民帰化法とも呼ばれる。日本生まれの一世に初めてアメリカ国籍の取得の道が開かれた。
集団訴訟の原告(左から)フレッド・コレマツ氏、ゴードン・ヒラバヤシ氏、ミチ・ウェグリン氏、ウィリアム・ホウリ氏、アイコ・H・ヨシナガ氏、ハリー・ウエノ氏=1987年4月、米国最高裁判所前で(Courtesy of Doris Sato)
1988年市民の自由法通称:日系アメリカ人補償法。1988年8月にレーガン大統領が署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪した。また、生存している被強制収容者全員にそれぞれ2万ドルの補償金を支払った。JANMに行くと日刊サン読者にプレゼント!
入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。
JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。
100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)
★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645
2014/01/04 掲載