JANMへ行こう!! vol.48 - 家族が“刑務所キャンプ”に送られた理由を知りたい3
今月のガイド

1947年サンタマリア生まれの日系二世。日系一世の父と帰米二世の母を持つ。長兄はヒラリバーで、次兄はツールレイクで生まれる。エルセグンドにある空軍基地内でファイナンシャルの仕事をし、50代半ばで引退。引退後は、友人でJANMボランティアのリー・ハヤシさんの勧めもあり、2005年からJANMでガイドとしてボランティアを始める。
―サカモトさんは、お父様の家系から数えたら日系二世で、お母様の家系からは三世ですね。
私は自分のことを若い二世と考えています。母は5歳で日本へ送られて22歳でアメリカに戻った帰米二世ですが、アメリカの学校には行かず、帰国後1年以内に日本人の父と結婚したので、一世のような感じです。父よりも日本人らしいなと感じる時がありました。母は典型的な日系一世の妻で、こちらから聞いた時は話しますが、自分から話をしたことはあまりなかったですね。
―サカモトさんとお父様は、よく話をされたんですね。これまでにインタビューをさせていただいたJANMのボランティアの方々からは、ご両親が収容所について話をされたことはほとんどなかったとおっしゃっていました。

1924年に渡米した父は、アメリカ市民権を取得できないことも、土地を所有できないことも、白人と結婚できないことも知っていました。アジア人の父に土地を貸すアメリカ人もほとんどいませんでしたし、職を与えるアメリカ人もそんなにいませんでした。
私は、父に「なぜ、こんな国に来たの?」と尋ねました。すると父は「ひどい扱いを受けたとしても、一生懸命アメリカで働けば、日本よりはマシかもしれない。頭を使って真面目に働けば、なんとか成功できる」と答えました。8人兄弟の末っ子だった父は、日本にいてもチャンスがないことを自覚していました。
1942年、アメリカ政府が「敵性外国人」として日系人に西海岸からの立ち退き命令を出した時、父は賛成しませんでしたが、父のマインドは影響されず、感情的にもなりませんでした。「あぁまた馬鹿な政府が何か言ってるよっ!戦前からも変な法律はあったじゃないか。それがもう一つ増えただけさ」という感じでした。
一方、日系二世たちはアメリカ人なので、同じ経験でも捉え方が全く違いました。特に十代から25歳くらいまでの二世は「自分はアメリカ人で、日本のことなど知らない。日本は自分にとっては外国だ」と思いました。しかしアメリカ兵から銃口を突きつけられて、「自分は完全にはアメリカ人じゃないのかもしれない、本当にはアメリカ人じゃないのかもしれない」と考えるようになり、自分自身の政府から裏切られたような感じがしたでしょう。政府が日系人にとった政策は、アメリカ人である二世を深く傷つけました。
戦後、日系人たちが収容所から解放されてカリフォルニアへ戻っても、厳しい状況は続きました。当時の社会の風潮は「ジャップはあっちへ行け。お前たちに与える仕事などない。住む場所も貸すつもりはない。お前たちをできるだけ苦しめて、日本へ帰らせてやる」という感じだったようです。
なぜ二世は語らないのか
二世たちにとって戦中戦後の体験はトラウマになりました。だから多くの二世たちは戦中戦後に何があったのかを、子どもたちにも話しません。ある時、私は三世のいとこから「両親が送られた収容所を調べてしほい」と聞かれて驚いたことがありました。彼女の両親は、戦中に何があったのか、戦後はどうだったのか、一度たりとも子どもたちに話したことがなかったそうです。多くの二世が何も語らずに亡くなりました。ある二世は、死ぬ間際になって、今こそ話さなければと意を決して、自分の体験を語り始めました。
私は、ある時、サイコセラピストのサツキ・イナ博士の映画を見ました。博士はツールレイク刑務所キャンプで生まれた三世で、収容所に入れられた子供の心理について研究していました。博士いわく、二世や初期の三世の心理状態は、レイプされた被害者の心理と大変似通っているというのです。強制収容された自分自身をとても恥ずかしいと感じていて、「自分たちが良くなかったから、収容所に送られたんだ。自分たちに非があるんだ」と自分自身を非難しているそうです。この考え方は本当に変なんですよ。しかし多くの日系人が、このように感じているというのです。だから戦中戦後の体験を語らないそうです。
―アメリカ生まれのアメリカ人である二世と日本出身の一世では、考え方や感じ方がこれほど違うんですね。
日系人がこんな大変な時期を乗り越えて、ゼロから回復できたのはどうしてだとお考えですか。
高齢の日系人は、やり直すのには年をとりすぎていて回復できませんでした。彼らはスラム街のような家に住み、とても貧しかったです。自殺したりアルコール中毒になった人もたくさんいました。多くの人が、あの体験で精神的に壊れてしまいました。特に独身の人は身寄りもなかったので、大変だったでしょう。高齢者だと首つりをしたり、自殺は収容所の中でもありました。ある日系人は時間がかかっても回復できましたが、ある日系人はできませんでした。第二次世界大戦は、私たちの人生を完璧に壊しました。
私たち家族は生き残ることができました。両親は明治時代の人で祖父母は仏教徒でした。文句を言わない、仕方がない、悪いことが起きても前進する、悪いことの中でも最善を尽くす、我慢など、このような日系人特有の性質があったから乗り越えれたと思います。他のアメリカ人が同じ体験をしても文句が出て乗り越えれなかっただろうと私は思いますね。回復できた日系人は犠牲者になることを拒否しました。悪いことは起きたけれど、前進あるのみ。
多くの日系人は農家の出身です。農業では、ある年は豊作、ある年は凶作。時には悪いことが良い人にも起きますよ。時には起きたことをどうしようもできず、ただ受け入れるしかない時もあります。このような哲学が多くの日系人を助けたと私は思います。
写真・文・構成 Tomomi Kanemaru
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JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。
100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)
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2014/11/15 掲載

