キム・ホンソンの三味一体
vol.2 リアルタイム学習
2011-11-28
先日うちの教会に通っておられる方から、「先生、来週説教される聖書の箇所をあらがじめ教えてもらえませんか。前もって読んで予習をしておきたくて…」というリクエストを受けて、少々困ってしまいました。正直なところ、私はそんなに真面目な性格ではなく、前日ギリギリにならないと決まらないのです。それで困ってしまったのも理由の一つですが、主な理由は「予習」がもたらすネガティブな影響を懸念したのです。
学校の勉強で「予習」というと、非常にポジティブな響きがあります。しかし、もしそれが、単に自分が経験していないものを、誰かの意見を通して先に知るという意味での「予習」であれば、先入観や偏見を身につけるための「予習」で終わってしまう時もあるのではないでしょうか。
どこかで聞いた話ですが、ヨーロッパのある国では映画館の外にチケットを求めて列を作っている人々を対象に“闇チケットの売人”ならぬ“闇情報の提供者”(?)がいるそうです。例えば、サスペンス・スリラーものなどの映画を観る前の観客に近づいては、「誰が犯人で、どういう結末になるかを聞きたくなければ、小銭をくれ」というなんとも面白くスケールの小さな犯罪なのです。
私たちは、映画、ドラマ、小説のような物語に関しては、どんなに長い時間を掛けてでも、お金を払ってでも、直接体験したいという欲求があります。しかし、実際に自分の人生に関わる大事な事柄に関しては、わざわざ自分で体験することなしに、むしろ誰かの意見をそのまま鵜呑みにして済ませた方が楽だと、思うようなところがある気がします。
特にロサンゼルスのような多人種多民族のメルティング・ポットに生きていると、人種や民族、文化や価値観の違いなどに関して「予習」で済ましてはだめだなとつくづく思う時があります。むしろ、いい加減な「予習」で知っていたことが仇となって、逆に相手を理解することへの妨げになるということもしばしばです。
「みんなそう言っている」といった類いの通念を学習する「予習」ではなく、「自分がすでに知っている」と思っていることに対しても、もう一度よく見て感じて、新しい発見をするという「リアルタイム学習」が必要ではないでしょうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。