キム・ホンソンの三味一体
vol.3 育児で育てられる親
2011-11-28
私たち、日韓夫婦にとっての初めての子育てが始まり、早1年と5ヶ月が過ぎようとしています。一般的に「子育て」というと、親が子どもを苦労して育てるといったイメージがありますが、我が家では親もまた子どもに育てられているような気がします。
その証拠に、子どもが生まれるまでは目覚まし時計を使っても「目覚めること」において極めて無力であった家内が、今では、真夜中に娘が立てるちょっとした音にも反応してバネのように起きられるようになりました。つくづく「母性」というものの素晴らしさに感嘆してしまいます。
私はといえば、 実は娘が生まれる前までは、子どもとどう接すればいいのかがよく分からなくて、近所の子どもと目が合うだけでも気まずく感じてしまいがちでした。それが今では外で赤ちゃんを見かけると、赤ちゃんやお母さんに自然と話しかけられるようになりました。今思うと、娘が生まれる前の自分は随分と未熟な大人だったのだと恥ずかしくなります。
おそらく他の赤ちゃんも同じだろうと思いますが、娘は与えられたおもちゃよりもメガネや携帯電話など大人の所持品で遊ぶのが好きです。親が絶対に触ってほしくない物ほど手に入れたい欲求は強くなるようです。遊んでほしくない物は、娘の手が届かないソファやテーブルの上に置くようにしていました。娘が一生懸命にソファに登ろうとしてもことごとく失敗に終わるのを見ながら、「ここでよし」と安心していたものです。
それがある日、その絶え間ない挑戦が実を結んで、ついに一人でソファに登った娘のその瞬間を私は目撃しました。もはやソファは安全な場所ではなくなり、「登ろうとして落ちたら危ない」と教え込むほかないと一生懸命に言って聞かせたりもします。しかし、自分が「したい」ことは、親の意に反してもやってしまうものです。案の上、転んで泣いている時もあります。
娘は親の規制や制限をものともせず、常に自己実現を果たすために外へと向かって飛び出して行くのです。娘の自由意志には、決して諦めない「勇気」と同時に、親にダメと言われてもチャンスさえあれば実行するぞという「愚かさ」もあります。しかし、未熟な親に成長する機会を与え、「勇気」と「愚かさ」の混在という普遍的な人間の姿の理解を深めてくれる我が娘に、今日も夫婦揃って育ててもらっている気がします。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。