キム・ホンソンの三味一体
vol.13 ニーバーの祈り
2012-09-22
この間テレビを見ていて、あるアルコール依存症者の自助グループが、ミーティングの前に皆で一緒に「ニーバーの祈り」を祈っている場面が目に入りました。
主よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
アメリカの神学者のラインホールド・ニーバーが、1943年の夏、マサチューセッツ州西部の山村のある小さな教会で説教した時に祈ったとされるこの祈りは、今もなお人種や国境を超えてさまざまな人々に知恵と力を与えている言葉ではないだろうかと思います。
ともすれば私たちは臆病になって、自分の力で変えられること・変えるべきことに挑戦することを避けてしまいがちになります。そして同時に、変えられないことを変えようと、もがき苦しむことが如何に多いのでしょうか。宗教、文化、歴史観の違いで対立する国家間の強硬政策や民族グループ間の紛争などのニュースを見ると、そのことをさらにハッキリと認めざるを得なくなります。
「尊い命が犠牲になることすらも致し方ない」としてしまう世界のすべての紛争とその対決の原因は、実は私たちが変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別することができず、混乱しているからではないでしょうか。自分の要求や主張を力づくで相手に受け入れさせる試みをやめて、相手の頑さがどこから来るのかを知る努力を始めることこそ、変えられないことを受け入れて、変えられることを変えようとする勇気ある行為ではないだろうかと思います。
先日「はい、どうぞ」という言葉を覚えたばかりの2歳と2ヶ月になる娘が、小さいコップにボトルから水をついでは「はい、どぉじょ」と差し出してくれました。「美味しい〜」と飲み干すふりをしながら「もらうことではなく、こうやって与えることこそが私たちにできる最小にして最大なことなんだな」とつくづく思ったものです。しかし、3杯目を過ぎたあたりからは、相手を傷つけないで断る方法がわからず困っている自分自身がそこにいました。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。