苦楽歳時記
Vol.29 ポントルソン
2013-05-28
十四年前、家人と二人でフランスを旅したことがある。モンサンミッシェルへ向かう途中で、ポントルソンの村で一泊しょうということになった。
酪農一家で営むホテルは、客室数わずか五部屋の小さなホテル。ホテルも小さいが、客室も小ぢんまりとしている。極めつけは、シャワールームの入口が狭いこと。案の定、身体が入りきらない。そのことをフロントに伝えて、早速、ポントルソンの村を散策に出かけた。
村に一軒しかないお惣菜屋に入ってみると、近くに住んでいる老婆が容器を持参して、ニシンのオイル漬けを買いに来ていた。僕も、まだ味わったことがない、鴨コンフィのテリーヌを買い求めた。
お惣菜屋の女主(あるじ)に、この辺りで、この村の郷土料理を食べさてくれるところを尋ねた。家族で経営する民宿の食堂を紹介してもらったので、期待に胸をふくらませながら足を向けた。
メニユーを見ながら珍しい料理を待ち望んでいたら、初老の店主が語りかけてきた。潮風に吹かれて育った羊の肉を藁(わら)でいぶした料理が特産品だという。確か料理の名前はプレ・サレだったように思う。
プレ・サレもこの上なく佳味であったのだが、特筆に値するのは、オンザハウスのスイーツだ。料理で腹が膨れてしまったので、デザートはもう入らないと思っていた。でも、せっかくだから一口食してみた。
食べたとたんに、口の中に煌々と広がる豪奢(ごうしゃ)な味覚。今までに味わったことのない、摩訶不思議な好味に放心状態が続く。家人と顔を見合わせても、しばらくのあいだ声も出なかった。
夕食後、星月夜のポントルソンの村を、遠回りをしてホテルまで辿り着いた。道すがら、人気のない石畳の坂道で、吐く息だけが白い。静寂、のどか、星空、限りなく澄んでいる冷気。森閑とは正しくこのことだと思った。しばらく静寂(しじま)な空間に佇んだ。目をつむると、未知なる発見をした思いにかられた。
翌朝、モンサンミッシェルに向かうバスの車窓から、潮風に吹かれる羊が放牧されているのが見えた。パリへ戻ったら、知己の詩人ジェレミーに、潮風の中で育った羊の肉を、土産に買って帰ろうと心に決めた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。