苦楽歳時記
Vol.33 文学のこと
2013-05-28
詩を本格的に書き始めたのは、『大阪文学学校』の時代からであった。最初は小説を書きたかった僕であるが、児童文学作家の、灰谷健次郎さんのクラスを受講していくうちに、詩の魅力にのめり込んでしまった。
元々、詩は読むことも書くことも好きであったので、それまでに数多くの詩集を読んできた。さらに文学学校の研究科に進むと、詩人、滝本明(めい)さんのクラスに入った。それからしばらくして、文芸雑誌、『関西文学』の編集部に名を連ねた。
昼間は大学に通い、夕刻に編集部に駆け込んできて責務をこなした。夜になると編集部の仲間と、よく飲みに出向いたものだ。編集長は詩人の竹島昌威知先生。僕の詩の師匠でもある。僕にはもう一人、詩の師匠がいた。大阪文学学校の校長、故小野十三郎先生だ。
小野先生の住まいは、阪堺沿線の近くにあり、通称「まつむし通り」、三軒長屋の奥に住まわれていた。JR天王寺駅の場末で、詩人、池田克己の未亡人が営んでいた屋台のおでん屋へ、小野先生と竹島先生と僕との三人で度々赴いた。酔いが回ってくると無礼講となり、文学論、詩論を闘わせた。
大学時代の僕は、文芸部を創部して同人雑誌を発行した。哲学の講師と馬が合い、時折原稿を依頼した。原稿の締め切りが過ぎてしまったので、大学の傍にある喫茶店に呼び出された。鷲田先生は約一時間、無言でペンを走らせた。間近で見ていた僕は、怜悧(れいり)を感受したのである。
時は流れて、アメリカの旭屋書店で、鷲田清一先生の著書を偶然に見つけた。プロフィールのところを見て驚いた。大阪大学総長になっているではないか。
往時は、生活のため旅行社を切り回していた。多忙な日々が続く、そんな毎日の中で、どこかにものを書きたいという思いに駆られた。ある日、『羅府新報』の長島編集長と知り合えた。新聞の一面にコラムを書いてみないかと誘われた。
これを機に、原稿の依頼が徐々に入りだした。一九九五年から病気で倒れるまで、執筆でせわしい時期を過ごした。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。