苦楽歳時記
Vol.36 春
2013-05-28
四季の温度の感覚を季語で表すと、春は「暖か」だ。
夏の「暑し」、秋の「冷ややか」、そして冬の「寒し」と比べると、春の「暖か」には、ほっと、一息いれたくなるような安らぎを覚える。
一句浮かびました。「暖かだあたたかくなれ懐も」。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり」。春秋をこのように歌ったのは道元である。
川端康成はこの歌を、「ただ四つ無造作にならべただけの月並み、常套(じょうとう)、平凡、歌になっていない」とこき下ろした。
この道元の歌は花鳥風月の究意だ。いや、川端康成の見識が正しい。俗人は双方の言い分に対して、うなずくばかりである。
古(いにしえ)の歌や句には、如実で容易な内容のものが多い。それだけに奥が深いのだろう。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」この平易な蕪村の句は、まるで風光るのどかな海が、目の前に広がっているようである。これぞ春の海だ。
「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」。これは安西冬衛の『春』と題した一行詩の傑作。
韃靼とはアジア大陸とサハリン島(樺太)との間にあるタタール海峡のことであるが、日本では間宮海峡と呼んでいる。
てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った。これでは詩にならないが、中国名の「韃靼」に置き換えることによって、字面といい、音の響きといい、随分と優れた一行詩に一転する。
「詩は裸身にて理論の至り得ぬ境を探りくる。そのこと決死のわざなり」。これは宮沢賢治の詩論の一つであるが、美しく感銘深い詩歌が閃くには、一筋縄ではいかないようだ。
三月二十日は『春分の日』。天文学的には、『春分の日』から春の訪れが始まる。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。