苦楽歳時記
Vol.41 春の憂鬱
2013-05-28
今週に入ってから久し振りに、知り合いの高齢者を順番に訪ねてみた。元気にしておられる方もいれば、入院や敬老ホームに移られた人もいた。
八十三歳のAさんは認知症であるが、夫人と長男のご一家と暮らしておられる。自家製のおでんを持参すると、たいそう喜んで召し上がってくださった。
このところ気鬱ぎみであったAさんは、思い出したようにおでんがうまかったと、時折、夫人に話をされるらしい。認知症の度合いと種類にもよるが、印象深いことがあると、いつまでも心に残るものなのだろうか。
春の陽気は人の心を快活にさせる反面、その反動で気が沈むことがある。「春愁」という熟語には、はかなくて物憂いけだるさが満ちている。
八十七歳のBさんは一人暮らし。趣味は詩歌を綴ることである。近ごろ、にわかに不安感に襲われるという。最近Bさんは、部屋の壁にアポリネールの詩『ざりがに』を貼りつけたと語ってくれた。
「不安よ、おお、私のよろこび/お前と私は一緒に行く/ざりがにが進むように、/後へ、後へと」。
七十九歳のCさんは、昨年の暮れにご主人を亡くされたばかりである。茶菓を味わう横顔に、憂愁の陰りが隠せない。
におい袋をかくしているような春の憂鬱よ/うすむらさきのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ/たんぽぽの穂のようにみだれてくる春の憂鬱よ/象牙のような手でしなをつくるやわらかな春の憂鬱よ/つめたい春の憂鬱よ
詩人、大手拓次は、春の沈鬱をこのように表現した。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。