キム・ホンソンの三味一体
Vol.18 共感
2013-05-28
今月で2歳と7ヶ月になる私の娘ですが、話せる言葉が増えてきました。まだまだ長い会話は成立しませんが、彼女の拙い言葉を理解しようと努力したり、少々ややこしい都合も分かってもらおうと説明したりしています。そういった中、たまにお互いを理解できたと感じる瞬間があると本当に嬉しくなります。
私たちは常に相手と何かを共感したいと願い求めていて、共感を確認することではじめて相手と今の時を共に生きているという幸福感を覚えるのではないだろうかと思います。相手との共感を通して得られる「自分が生きているという証し」こそが私たちに喜びと幸せを感じさせるものではないでしょうか。
気の遠くなる昔の話ですが、私が小学校高学年だった頃、とても仲の良い友達が一人いました。よく放課後に私の家で一緒に遊んでいましたが、ある時期から私に「もしこうだったら君はどうする?」という質問をするようになりました。それはどれも極限状況が前提で、例えば「僕ら二人が乗った飛行機が墜落しそうになった時、パラシュートが一つしかなかったらお前はどうする?」といったもので、私が「分かんない」と答えると、「僕なら二人の身体をまずシートベルトなどを使ってしっかりと固定して、一つのパラシュートを二人で使えるようにする。まだ大人じゃないから僕たち二人の体重でも大丈夫なはず」などと詳しく説明してくれるのでした。
当時は「なんでそんな質問ばかりするんだろう」とあまり真剣に取り合っていませんでした。その後、お互い違う中学校に進んでから疎遠になってしまいましたが、大人になって分かったことは、あの時、彼は私に本当の友情を感じてくれていて、同時にそのことへの共感を私に確認してくれていたのだということです。今でも思い出す度に、その彼の思いに全く応えてあげられなかった当時の自分の未熟さに口惜しくなります。
そういえば昨夜の出来事です。私と家内は毎晩交代で童話を歌って娘を寝かしつけていますが、私の番に限って「七つの子」や「ドレミの歌」ではなく(私の得意な歌なのです)、「オモチャのチャチャチャ」をはじめとするママの得意な歌を要求されて困っていました。気づかれないと思って苦し紛れにでたらめな歌詞で歌っていたら、娘が笑いをこらえているのに気づきました。「パパ分かんな〜い」と自白すると、娘が大声で笑い出し、私もつられてしばらく一緒に笑いました。お互いのことを心から喜び合った一時でした。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。