現代社会ド突き通信
1945年以来核に怯えていた私 第三回
2014-03-14
原発を建てる前(1960年代)に、メディアが第一に庶民、殊に建てられる予定になったその土地の人々に核の危険性の明瞭な知識を与えなかった罪はとても大きいと思います。政府、企業が隠しているのなら、メディアがそれを掘り起こす必要があるのです。庶民は知る権利があるからです。
マーフィーの法則とアメリカでジョークとして言うのですが、「いくつかの方法があって、一つが悲惨な結果に終わるものであるとき、人は必ずその方法を選ぶ」という“法則”を米軍のエンジニアのマーフィーが述べたといいます。これです。でも今度の場合は偶然ではない。起こりうるべくして起ったのです。
2001年に出た拙著「なんや、これ? アメリカと日本」にその前10年くらいの間に起こったことや考えたことを書いたのがあります。
引用しながら今と比べてみましょう。
1988年頃だったと思うが、日本の中高生に英語を教えるというプログラムで息子が日本へ赴任するのに、福島県に決まった。その県からのウエルカムの手紙と共に観光案内が入っていて、筆描きのお寺、お城、侍、そして一番東の海岸に多くの原発の絵が描いてあった。それを見て恐怖と共にこれを観光と呼ぶのかと驚いた私は、息子にこれだけも多くの原発が建っているところの近くに行く?と尋ねたのだった。彼はそれをみて、「赴任地を替えて貰う」と、ただちに言って、手紙を書いた。余り長い間返事が来ないので、息子は私に外務省だったか文部省だったかに電話をして欲しいと言った。
日本の役所は融通性がないので、替えてくれないと思っていたが、「あー、あの原発の人」と、大声で言って、それからすぐ、違う県に替えてくれたのだった。
あの時、大人しくしていて場所を替えてもらわず、もし今度のような事故が起こっていたらと思うとぞうっとします。情報を得て行動を起すことは大切だと学んだのでした。
それを聞いたこちらに住んでいる、つまりアメリカに永住している日本人の友達に、私が「過保護だとか、あなたの息子さんが行かなければ、誰か替りに行くのよ。わがままだわ」と言われてその反応に私のほうが驚いたのである。その時、あー日本では「我が儘」が悪い行いという概念を植えつけて、思考統率をするのだと気がついたのだった。我が儘なのは自分の意見があるから、お上は扱いにくいのである。デモクラシーの反対なのだ。
もう一人の男の友達は「僕なら決められたところに行かせますね」と言った。だから、私は「あなた、他人の子供だからそう言えるのよ。あの可愛いお嬢さんにあんな危険な所に行かせますか?」と、言うと、ちょっと躊躇していたが、「行かせますとも」と、引っ込まなかったので、「じゃあ、この次にあなたのお嬢さんに会ったときに、あなたのお父さんはね。あなたを原発の隣に住ませても平気だと言ったと話しますよ」と話したことだった。彼は黙ってしまった。
10年以上こちらに住んでいてもお上の命令に絶対服従という戦中のような軍国主義的態度に、また核についても無神経であることにも驚いた。 それが、同じことをアメリカ人の友達に話すと、「替えてもらいなさいよ。だれがなんと言おうと自分の命が大切だから」と、言下に言ったのである。
その時の日本人の友人たちの反応にショックを受けたことをエッセーに書き、知識人向けという週刊誌アサヒジャーナルに渡したら、編集長から「原子炉周辺にはね。ムラサキツユクサが植えてあって、放射能が漏れたら花のオシベの色が変わるんです。そんな心配は今はいらない。被害妄想だ」といわれ掲載を拒否された。私は彼を知っていて、うちにもきたこともあるし、インテリだと思っていたのだが、全くショックを受けた。日本では人間の命がツユクサの反応に掛かっているのか? 冬、雪が積もっていれば何もみえないではないか? このインテリ男は気が変になったのではないかと2、3日呆然としていた。
そんな時、ロサンゼルスの同社の特派員から電話があって、「アサヒジャーナルの編集長から米谷さんに説明をしてくれといってきたんですがね。政府が推進している計画なので原発反対のエッセイは新聞協会の申し合わせで載せないことになっているんです」と彼は言った。きいて呆れてしまった。その時メディアの存在理由が分からなくなった。
最近分かったのですが、あらゆる日本のメディア(主にテレビ)の会長とか社長とかが原子力産業、原子力委員会の参与とか理事とかをしています。道理で・・・ (つづく)
*これは、2011年3月11日の2ヶ月後に書かれた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。