後藤英彦のぶっちゃけ放題!
第341回 曖昧さの粋、新国立競技場始末
2015-09-10
曖昧な部分を残すのが日本人の癖だ。癖というか古代からの知恵だ。
「和をもって尊しとすべし」という聖徳太子の諭しもある。
だから何事も曖昧にして誰も責任を取らない。犯人(責任者)探しをして事をあらだてるのは和の精神に反することだ。そんな文化の中で私たちは育ってきた。
だから下から上までわが常套句は「すみません」だ。自分に咎はなくても謝ってさえいれば円く収まるからだ。「すみません」を言わない日はないというサラリーマン調査もあるくらいだ。
周知のことだが、欧米人に「すみません」( I am sorry)をいえば負けを認めることになる。
交通事故で「すみません」をいえば、自分のミスを認めたことになり修理その他の費用を一切かぶることになる。
曖昧文化のツケだ。
暴力団との黒い交際が指摘された島田伸助が四年前、理由を告げずにいきなり引退した。
レギュラー番組六本を抱えていた男に突如降りられたTV局は穴埋めに苦労した。いまだに伸助と暴力団との関係は闇の中だ。
福島第一原発の事故をめぐる責任の所在も依然灰色だ。
国、東京電力の落ち度をめぐって訴訟が始まっているが、曖昧な領域の特定には時が必要だ。
二○二○年東京オリンピックにはふたつのケチがついている。ひとつはエンブレムのデザイン盗用騒ぎ。
当のデザイナーは盗用を否定しているが、海外のデザイナーが訴えているから曖昧なままではすまないだろう。
もうひとつは新国立競技場の建設費をめぐる疑惑だ。
整備計画段階で目途にしていた一三○○億円が設計家ハデイド氏らの試算で三四六二億円となりこれを修正、二五二○億円に下げた。
周辺工事を含め二六五一億円との再修正に安倍首相が出て、一五五○億円で政治決着をみた。
契約書に署名した人が当事者のはずだが、署名したとて責任者と言えないところが日本の社会だ。安倍首相も「誰に責任があるとか、そもそも論を申し上げるつもりはない」といっている。
まさに曖昧文化だ。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。