キム・ホンソンの三味一体
vol55 苦難と死と復活
2016-03-31
やっとイースターが目前に迫って来ました。「やっと」というのは、教会の暦ではイースターから遡って46日前の灰の水曜日からイースターの前日の聖土曜日までの間を受難節と呼び、イェスキリストの受けた苦しみを少しでも分かち合いながら過ごす期間があるからです。キリストの苦しみを分かち合うと言うと少し大げさに聞こえるかもれしませんが、自分でもできる小さなことを節制しながら自分達の罪のために苦しみにあったキリストのことを思う時を過ごすのです。
罪のないまま死刑になる人の気持ちはどんなものだろうと考えてみました。自分一人死ねば家の名誉が保たれるとか、他人の罪をかぶって身代わりになれば残される家族にはたくさんのお金が入るとか、そういった見返りのある死ではありません。なぜイェスは当時の宗教指導者達の自分を殺そうという陰謀を知りながら、逃げずに自ら十字架(当時の死刑台)を選んだのでしょうか。死ぬ間際ですら自分を十字架につけた人々のために祈るイェスに目的があったならば、それは一体何だったのだろうか考えました。やはりイェスは自分の死を通して私達に赦すことについて、暴力の負のサイクルを自分達の手で終わらせることを教えようとしたに違いないと思うのです。
そんなことを考えながらの聖木曜日の礼拝からの帰り道、14年も乗った愛車の故障に気づき、翌日の聖金曜日の礼拝後に行きつけの修理屋さんに車を預かってもらいました。いつもは家内に迎えに来てもらうのですが、その日はなんとなく牧師の制服を着たまま家まで2マイルほど歩きました。汗だくになって家に着くと、5歳と8ヶ月になる娘が「パパの背中にかわいいのついてる。」と言いました。見てみると背中にイースターの卵とウサギのシールが貼られていました。
聖金曜日の礼拝中、そして修理屋さんからの帰り道にずっとこれがついていたのかと思うと恥ずかしくなりました。きっと3人の子供のうち誰かが、パパがんばれ、という意味で貼ってくれたのだと思います。そう考えると今度は何だか嬉しくなりました。イェスが死からよみがえった理由は、私達自身が現実の虚しさと自分達の無力さに負けないための本当の希望を与えてくれるために違いないと、子供達が遊んでいるのを見ながらふと思いました。ちょうどその時、修理屋さんから14歳になる我が愛車の復活を知らせる電話がありました。 明日のイースター礼拝が楽しみです!
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。