キム・ホンソンの三味一体
vol76 優しすぎるのはダメ(?)
2017-06-15
先日ある日本人のお母さんから7歳児の娘さんのことでお悩みの相談を受けました。結果から言いますと、娘さんの優し過ぎるところが心配でならないとのことでした。具体的な様子をお聞きするとこうでした。「娘はとにかく人が良すぎて、何でも人に分け与えたり譲ったりしてしまって自分には何も残らない状態です。ある日、日本のおばあちゃんから送ってもらったかわいい消しゴムが半分になっているのでどうしたのかと聞けば、友達が欲しそうにしていたから半分切ってあげたと言っていました。週末によく公園に連れて行って遊ぶ様子を観察するのですが、ブランコなどの順番を並んで待っていてやっと乗れるようになっても、次に待っている子のことが気になってしまうのか、たいして乗ってもいないのにすぐに次の子に譲ってあげてしまいます。こんなことでは将来大人になって弱肉強食のような厳しい世の中を生きて行けないのではないかと心配でなりません。」
思いやりがあって優しくて、なんと祝福された女の子だろうかと思いました。祝福というのは自分の努力で勝ち得るものではなく、あくまで与えられたご褒美や幸のようなものだと言って良いと思います。弱肉強食のような世の中において、このような優しさを持ち続けられていることはなんという祝福でしょう。大抵の場合は厳しい世の中のルールに自分を置き、一喜一憂してしまいます。要するに、常に他人と自分を比較し競争を続けるという緊張とプレッシャーが蔓延する憂うつな人生を、ほとんどの人は生きているのではないでしょうか。
今月に6歳と11ヶ月になるうちの娘の場合にも例外ではありません。「パパ、友達のお家みたいにプールがほしい。」「パパ、クラスの中で自分の部屋がないのは私だけ。」等々けっこう親にとってグサッとくるようなことを平気で言っている我が娘ですが、先日はちょっと違っていました。「パパ、クラスのオリビアちゃんが白血病だって。学校に来られない。病院にいるの、パパもママも帰った夜はきっと一人で泣いている。パパ、神様にお祈りして。早く病気をなおしてくださいってお祈りして。オリビアちゃんがかわいそう。」泣いている娘の手をとって一緒にお祈りをしました。他者のことで涙を流し祈ることの出来る純真な気持ち、これこそ私達をこの世のルールとそれに伴う憂いから解放してくれる祝福ではないでしょうか。娘を通してそのことを学んだような気がしました。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。