キム・ホンソンの三味一体
vol.102 不確かで虚しい一生であっても
2018-07-26
韓国に行って来ました。久しぶりに母親と共に時間を過ごすためでした。母親が認知症と診断されて兄の家族と住むようになったのは去年の暮れでした。前に会った時よりずいぶんと痩せて歳を取った母親を見ると哀れで胸が痛みました。けれど嬉しそうに僕の手を取ってなかなか離さないまま喜んでくれている様子に少し安心できました。
母親は、最近の出来事は中々おぼえられないようでしたが、昔の記憶は割とよくおぼえていました。2週間ほどの間、昔の思い出を語り合いながら散歩をしたり、荷物の整理を手伝ったり、以前から母親が好きだった料理を食べに出かけたり、と楽しい時間を過ごすことが出来ました。
その人がその人であることを確認できるのは、その人の中に自分と共有できている記憶があるからではないでしょうか。しかし、やがて母親は僕との記憶をすべて失ってしまいます。そうなると母親は生きていながらこの世から消えてしまったかのようになるのでしょう。そのことを思うと虚しさと悲しみで全身が痺れる感覚に襲われます。しかしこの虚しさと悲しみはこと認知症の母を持つ僕だけでなく、すべての人に同じく当てはまる宿命のようなものでもあります。
無力・無知のうちに生まれた人間は何一つ保証もないまま不確かな時間を生きてやがてはまた無力・無知のうちに一人で消えていくのです。しかし、その不確かで虚しいとさえ思える一生の中にも確かに頼ることの出来る、導き守ってくださる神という存在を知ることは、如何に慰めでしょうか。
「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの鞭と、あなたの杖は私を慰めます。あなたは私の敵の前で、私の前に宴を設け、私のこうべに油をそそがれる。私の杯はあふれます。(詩編23:4-5)」
私達の羊飼いであるキリストが、病い・事故・事件・災いという「敵」の前で、私達の前に宴を設けてくださることを知ることで私達の魂に平安と救いが与えられます。私達の不確かで危うい一生の中で常に手を差し伸べてくださる神について、毎週木曜日の午前10時に学びの時を持っています。どなたでも歓迎いたします。ご連絡ください。
「誰にでも分かる聖書の話し」
場所:聖霊の実ルーテル教会, 2706 W 182nd St, Torrance, CA 90504
時間:毎週木曜日 午前10時 電話:(310)339-9635 khs1126@gmail.com
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。