編集部
AFTER SUGIHARA SETSUZO KOTSUJI's AID TO JEWISH REFUGEES 命のバトンをつなぐ人々Part 4-2
2019-05-11
杉原千畝の銅像の写真を見せながら講演をする広瀬佳司氏(左)
1940年8月3日、ソ連がリトアニアを併合し、同年9月27日には、日独伊三国軍事同盟が締結された。しかし、福井県敦賀市にある「人道の港敦賀ムゼウム」のウェブサイトによると、 ユダヤ人難民の敦賀港への上陸は、1941年6月14日まで続いたそうだ。
1941年の秋までに、ほとんどのユダヤ人難民が安住の地を求めて日本を旅立ち、小辻の無条件の救済は一区切りついた。しかし、広瀬氏は、救済は、我が身に降りかかる危険を顧みない小辻の命がけの賜物だったと語った。
ユダヤ人難民救済に奔走した小辻だったが、日本におけるユダヤ人側のスパイだと見なされ、憲兵の暗殺リストにも載り、命の保証はどこにもなかったそうだ。終戦間近、小辻は家族を連れて、ハルビンで暮らすユダヤ人の友人を頼り、日本を出国した。これほど小辻自身も家族も危殆に瀕していたのだろう。
1946年、米国陸軍が支配したハルビンに日本人はほとんど残っていなかった。小辻一家は多くのユダヤ人に助けられながら、無事に日本へと帰国した。
何が、一般人の小辻をユダヤ人難民救済へと駆り立てたのか?
なぜ、自らの身も家族の身さえも危険にさらしながら、ユダヤ人難民を助けたのか?
広瀬氏は、杉原との違いを次のように語った。「小辻は、meshugener(イディッシュ語で“狂った人”)と考えられるでしょう。タルムード(ユダヤ教の聖典)や聖書ヘブライ語への抑えきれない情熱について、小辻自身が頻繁に自問自答していました」
広瀬氏は、イスラエル独立宣言の署名者の一人でイスラエル宗教大臣でもあったラビ・ゾラフ・バルハフティクと小辻のエピソードを紹介した。
ラビ・バルハフティクはリトアニアで、ミール・イェシーバー(ポーランドのミール、現在のベラルーシにあったタルムードを学ぶための施設)で学ぶ全員にビザを発行するようにと杉原を説得した一人でもあり、後に杉原の「諸国民の中の正義の人」受賞に尽力した人物でもあった。
小辻は自宅の鎌倉から神戸に滞在していたラビ・バルハフティクを訪ね、ユダヤ人と日本人の歴史や宗教について論じたそうだ。しかし、二人の間に共通する言語はなく、ラビ・バルハフティクは当時、英語を少しだけ話し、小辻は聖書ヘブライ語で書かれた「詩篇」の詩を知っているだけだった。
このようなエピソードから、小辻は言葉では表現しきれない「何か」に突き動かされていたかもしれない。
また、広瀬氏は、小辻と親友のラビ・アブラハム・モルデカイ・ハルシバルグとのエピソードを紹介した。
ある時、ラビ・ハルシバルグがイスラエルの失われた10支族の子孫が日本だったという理論について小辻の意見を聞いた。
小辻は「この理論に対する科学的な証拠はありませんが、何百年も前にオリエンタル・ユダヤ人がペルシャ、インド、その他の国から日本に移住し、日本人の間で同化した可能性があります。日本の高等階級の宗教はユダヤ人の宗教哲学に似た哲学的神秘主義と結びついています」と答えたそうだ。
小辻は60歳の時にユダヤ教に改宗し、名前を小辻アブラハム節三とした。13歳で旧約聖書を初めて読み、それから47年が経っていた。
自らを危険にさらしても他国の人々や他の民族を助けるという決断をした小辻や杉原のような人々が“ビザ”を“命のビザ”へと換え、6000人以上とも言われるユダヤ人難民が生き延びた。
特に小辻の功績については、杉原と違い、ほとんどの人がまだ知らない。今回、ユダヤ人の歴史とイディッシュ語文学を40年間も情熱を持って研究してきた広瀬氏だからこそ掘り出せた小辻の姿が紹介され、杉原との違いが明確にされた。
広瀬氏が講演で小辻を形容した「meshugener」はイディッシュ語で“狂った人”という意味だが、広瀬氏が小辻への敬愛を込めて発した言葉であることは、講演を聞いた者にとって疑いようがない。
普通の人の感覚からは計り知れない「何か」が小辻の中に存在したと察知した広瀬氏が研究の末に行き着いた言葉だったのではないだろうか。
次回は、山田純大氏の講演に基づき、小辻の功績を紹介する。
=Tomomi Kanemaru
(つづく)
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