キム・ホンソンの三味一体
vol.137 重荷の負い方
2020-07-09
「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
このイエスの言葉がクリスチャン以外の人々に対しても癒されると感じる理由は、何の条件も資格も問われないまま、重荷を負うて苦労していると思う人なら、誰でも安らぎをもらえるという内容が、あまりにも私達の都合にぴったりだからです。しかし、残念なことにこの言葉は、私達が期待している内容とは違います。私達が期待しているイメージは、「私はフォードのフルサイズ・ピックアップ・トラックです。荷物など、どんどん積みなさい。代わりに運んであげます。」です。しかし、なぜか「重荷を代わってやる」という約束はどこにもなく、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という風に終わっています。「来てわたしの軛を負いなさい」、このままじゃ重荷を代わってもらってゆっくりと休めるどころか、かえってイエスの軛まで負わされそうなのです。
実は、ここでイエスは「あなた方を休ませてあげよう、そうなるためにはまず私の軛を負って私に学びなさい。そうすればあなた方の魂が休まるだろう」と言っているのです。人々のために自分を犠牲にして十字架を負うほど柔和でへりくだったイエスの生き方に学べば、私達は耐えられる。私達は自分達の重荷を十分に負うことが出来るのだということです。軛とは、2頭の牛で耕作機をひく際、相互を繋ぐために首にかける木枠のことであり、軛を用いることで1頭にかかる負担が少なくなるのです。
こんなイメージです。私達がイエスのもとに行って、自分の重荷をイエスの引いていた台車に入れて、イエスとペアになって軛を引くということです。その台車の中には自分の重荷はもちろん、元々イエスが引いていた隣人のための重荷があるわけです。隣人のための重荷とは、今の私達の社会であるならば、アフリカ系の人々、性的マイノリティーの人々、合法不法を問わずに移民者や難民の人々のように虐げられ小さくされた人々をかばい仲間となることで不利益を被るようなことだと言えるでしょう。しかし、そのような重荷も、私達の重荷も、すべてイエスが共に担ってくれる。それを知ることは、重荷を負いつつも心が平安に満たされ得ることを知ることです。
7月12日日曜日の3pmからズームでの礼拝があります。ご興味のある方は是非メールでお申し込みください。 Khs1126@gmail.com
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。