キム・ホンソンの三味一体
vol.147 ジョーカーにならないためには
2021-03-19
一昨年にアカデミー賞をとったジョーカーというハリウッド映画がありました。映画のテーマとしては、一人の狂人にして悪人が周りの人々によってどのようにして作られていくのか、というものだったと思います。
実は、聖書の中にもジョーカーと通じるもののある人物が一人登場します。徴税人のザアカイという人です。徴税人というのは植民地支配をされているローマ当局に自分の民族から税金を集めて納める人のことです。ローマに納める以上の税金を取り立てて私腹を肥やしていた徴税人達は、当然嫌われ者でした。しかし、ザアカイだって最初から徴税人だったわけではありません。自分なりの幸せを求めて平凡に生きようとしたはずです。けれども子供の頃からいじめられ、だれからも愛されず、だれからも相手にされず、孤独だった彼は徴税人となり、あくどい方法で金を儲け続けました。
ところが、自分の町にやって来たイエスを、興味本位で見物しようと思っていたザアカイに、主イエスは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。「相手の家に泊まる」ということは、最も親しい交わりを持つ間柄であることを公表する行為なのです。そんなことを言われたのは、ザアカイにとって生まれて初めての経験でした。それを見ていた周りの人々も「なぜ主イエスは罪人の家に泊まるのか」と驚いていました。
その晩の食事の席で、彼は、持っている財産の半分を貧しい人々に施し、残りの半分で税をだまし取った人に4倍にして返す、と主イエスに宣言します。つまり手元にお金はほとんど残らないということです。自分にとって全てであったお金をあっさりと捨てさせたものは、彼の心の内に湧き起こった喜びでした。愛されているということ、主イエスから認められていることの喜びでした。
イエスは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と自分の遣わされた来た目的を定義しています。ここで言っている「救い」とは、死後のことだけではなく、この世にいながらしてザアカイのように圧倒的な喜びに満たされて生きることに他なりません。自分の人生には意味と目的があって、ありのままの自分を神は愛してくださっていることを知ることで、地上での救いが始まります。
毎週日曜日の午後3時からズームでの礼拝があります。ご興味のある方は是非メールでお申し込みください。 khs1126@gmail.com
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。