キム・ホンソンの三味一体
vol.152. 神によって耕される土であるならば
2021-06-18
先日、娘の小学校の卒業式に行ってきました。一つ気づいたこととして、最近では卒業式のことを “Graduation”よりも“Promotion”ということばを使うことが多いようです。分からなくもないのですが、プロモーションというとどうしても「昇進」的なイメージが強くて少し違和感を感じてしまいました。しかし、経済的な価値を何よりも大事な価値とする人間の営みから考えると、プロモーションの方がむしろ正確なような気もします。
人は人生の中で成功という「実」を結びたいと願って人生のスタートを切ります。この成功というのは、いわゆる物質的、経済的、あるいは社会的な地位といった意味での成功です。生まれた時から、親は子供を他所の子供と比較し、優劣を教え、競争を教えます。親もまたそのように教えられて育ったからです。やがて学校に行き、社会に出て、小さな成功から大きな成功の「実」を結ぶための競争を繰り返しつつ歩むことになります。そのなかで成功の実を結ぶ人もいれば、また、結ぶことが出来ないまま生涯を終える人もいます。では成功の実を結べなかった人の人生は虚しい人生でしょうか。
イエスは人間を神が耕し良い実を結ばせる土にたとえています。土であるのであれば、様々な種によって様々な実を結んでいるはずです。にもかかわらず、人間自身が経済的な成功という実だけを価値あるものとし、その他の実は価値がないかの如く自己催眠をかけつつ生きているのではないでしょうか。
仮に一度成功の実というものを結べたとしても、咲いた花がやがて散るように、いつかその実も枯れて地に落ちることになります。そうであるならば、結局は枯れて地に落ちる成功の実を結ぶ、結ばないに一喜一憂するのではなく、人生の中で結ぶことのできた他の実に価値を見出し喜ぶべきではないでしょうか。
さらに言うのであれば、もし私達が、神によって耕され手入れを受けている「土」であるならば、それだけで、どれほど美しく、豊かであることでしょうか。風の日や雨の日、晴れの日や雪の日が土の上に繰り広げられるように、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみの人生の歩みにおいて、決して他の人とは代わることのできない、たった一つの与えられた人生を歩んでいるような気がします。もし耕しているのが私達自身でなく神であるならば。今までの失敗も後悔も遠回りも無駄だったと考えていたすべてのことがより良い実を結ばせるための肥料であったと言えるのではないでしょうか。現に今私達が生かされているということは、結ぶべき実がまだあるということのような気がします。
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。