キム・ホンソンの三味一体
vol.164 人間の愛、神の愛
2022-02-04
それぞれの宗教には、もっとも大事だとされる概念、価値観のようなものがあります。キリスト教では「愛」がそれに当たるのですが、私たちが一般的に考えている愛とは結構ギャップがあります。愛といわれて私たちが自然と思い浮かべるのは、恋愛、母性愛、父性愛、友情、兄弟愛などがあると思います。他にももっとあるでしょう。しかし、様々な類いの愛であってもそこには一つの共通点があります。それは、自分の愛する相手の中に、愛するに価する理由が必ずあるということです。恋愛でいえば、趣味が合う、話が合う、職業が安定している、容姿端麗等々がその理由となるでしょうし、母性愛、父性愛、兄弟愛などは、生物学上であってもなくても自分の子、自分の家族であるからという理由が大前提となっています。友情においても相手から自分へ、または自分から相手へのギブアンドテイクの交流が互いの信頼の条件となります。人間の愛というのは、とても理にかなっているのです。しかし、キリスト教でいう「愛」は、このゲームのルールを壊します。それは、理由や条件に縛られることのない自由な愛だからです。
キリスト教を世界三大宗教の一つにしたといっても過言でない使徒パウロが、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中に愛についての定義があります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリント信徒への手紙一13:4–7)
愛を愛足らしめるのは、相手から何の条件も理由も求めず、ただひたすら愛することであるというのです。実は、ここで言われている愛とは人間の愛ではなく、イエスキリストによって地上にもたらされた神の愛のことです。「キリストは滅びて当然の罪人である人間を救うために、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かずに、自分のものでもない十字架を進んで背負って、忍耐強くゴルゴダの丘を歩んだ。キリストは、自分を十字架にかけた人々さえも愛し、彼らがいつか自分達の罪に気づいてくれることを信じ、人間に望みをかけ、人間の不義に耐えつつ、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐えている。」
自分の限られた愛が、神の愛によってほんの少しでも改良されれば、ほんの少しでもそのキャパシティが増えれば、人を恨むことなく、人に苛立つことのない平安を心に持つことができるのに...、と思う今日この頃です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。