キム・ホンソンの三味一体
vol.170 自分が丸ごと包まれるような優しさ
2022-04-28
聖書には金曜日に十字架につけられて息を引き取ったイエスが3日後の日曜日に復活したことが書かれています。そしてその日曜日の夕方、イエスを処刑した集団に逮捕されるのを恐れて隠れていたイエスの弟子たちのもとへと復活したイエスが訪れたのでした。皆は大いに驚き、また喜びました。しかし、弟子のトマスだけはたまたまその場にいなかったのです。後にそのことを聞いたトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と暴言を吐きました。他の弟子たちに比べて、トマスが特別疑り深かったからだとは思えません。彼は以前、命が狙われていたイエスに同行するのを皆が躊躇していた時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った忠実で勇敢な者でした。皆が怯えて家の戸に鍵をかけて隠れていた時も、彼は外に出て復活したと噂されていたイエスを彼なりに追っていたのかも知れません。そのようなトマスだからこそイエスを見たと喜ぶ他の弟子たちを見て疎外されたような寂しさを感じて依怙地になっていたのです。
しかし、そのまた一週間後の日曜日、イエスはもう一度弟子たちに訪れトマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」傷跡へと指を入れるとは、イエスが十字架で死ぬまで味わった全ての苦痛に精神的に引き戻されるかもしれない引き金にもなり得ることです。しかし、心が頑になっているトマス、そのたった一人のためにイエスはそれでも良いとの覚悟を示したのです。
イエスが逮捕された時、トマスを含め弟子全員はイエスを裏切って逃げ出しました。とりわけ正義感が強かったトマスは、自分自身を責めつつ後悔の日々を送っていたに違いありません。しかし、イエスはトマスのそのような胸の内さえすべて知った上で、再び痛みが伴おうともトマスの心の平安を願い自分の傷跡を差し出したのです。その時、トマスは、自分が丸ごと包まれている優しさ、暖かさを感じたに違いありません。心が振るえ感動したトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。
自分ですら赦せない自分の過去を赦し、反省のない現実を咎めず受け入れ、同じことを繰り返すだろう未来をも構わないとする存在がいることを知ることは大きな慰めです。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。