受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.38 難病の少女が教えてくれたこと2
2022-07-15
医師から見ると、患者さんという存在は、「治す」対象であると同時に「仕える」対象でもあります。
おなかがすいた人がいるから、料理人は食事をつくって差し出すことができる。それと同じ意味で、病気の人がいるから、医師は病気を癒す、仕える対象を得ることができます。
苦しんでいる人がいるから苦しくない人はそれを助ける機会が与えられる……そのこともまた、病苦のもつ「意味」ではないか。
一般の人にはなかなかわかりにくい考え方かもしれませんが、私はそのようにあらためて病気の意味や意義を掘り下げる機会を与えられ、その考えが自分の中で以前より深まるのを感じたのです。
もちろん医師にとって、病気は治すべきもの、痛みは取り除くべきものであることが第一義ですが、その医療行為を通じて、治す側の心や「人間」も養われます。奉仕は仕える側の人格も陶冶(とうや)するのです。
これは医師に限ったことではありません。子どもが生まれる。か弱くて、未熟で、あぶなっかしい生命である子どもを、一人前に育てることを通じて、親の人間性もまた成長していきます。
病気を得た人間にとっても、同じことがいえるのではないでしょうか。たとえば、私と同業の医師の中に、自分ががんになってはじめて、患者さんにやさしく接することができたという人がいます。
それまでもけっしていばっていたわけではないが、弱い立場にある患者を治してやろう、医療を施してやろうと、どこか上からの目線で接していた。その当人が患者さんと同じ病気になってはじめて、その不安、痛み、つらさがわがものとして理解できたというのです。
医師自身が患者になることによって、同じ病気の苦しみを共有できる。自分も苦しむことによって、他人の苦しみがわかる。そんな経験をした彼は、病気になるまえよりもずっと、「よい医師」になることができたと言っていました。やはり病苦は人を育て、成長させる契機となるのです。
それとは反対に、前回のコラムで紹介した先天性無痛覚症の患者さんの多くは短気で怒りっぽく、他人に冷淡で自己中心的な傾向が見られるといいます。でも、これも病気のなせるわざで、痛みの自覚のない人は他人の痛みにも鈍感になってしまうのです。
こう考えてくると、病気にも利点があり、プラスの意味があることにだんだんと理解が届いてくるはずです。
つまり、他人の苦しみに関する想像力が増して、人にやさしくなれる。だから、病気は人を成長させるチャンス。人は苦しみを通じて、より人間らしくなる……そういうことがいえると思います。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。