受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.40 痛苦は尊大さをいましめる薬2
2022-07-29
痛苦というものがないと、人間はつい思い上がって、意のまま、欲望のおもむくままに行動しがちです。でも痛みや苦しみが与えられると、その欲望にブレーキがかかります。
「この病気はこれまでの生活に無理があった結果ではないか」
「ここらで生き方を改めようというサインではないか」
そんな自省の気持ちや謙虚さが生まれてくるのです。
人は大病をすると聖人に近づくといいますが、それは病気が自分の過ち、いたらなさに気づかせてくれるからではないでしょうか。すなわち、病苦が尊大さや傲慢さへの警告信号となり、その中和剤ともなるのです。
また、それは述べてきたように、ときに人間の中に静かな強さを醸成してくれる滋養分となり、他者に対するやさしさ、温かさの育成器ともなりうるものです。
もし、人間が完全な存在だったら、おそらく人間の心身に痛み、苦しみというファクターは備えられていなかったでしょう。しかし幸か不幸か、私たちは不完全な存在としてこの世に生まれ、生きて、死んでいきます。
その一生を通じた不完全さを人間自身が自覚するために、あるいはそれを忘れないために、神は痛苦というものを人間に与えたのではないか。
だから、病からも必ず得るものはあるし、苦しみを通じてしか得られないものもある……私はそんなふうに思えてならないのです。
以前のコラムで、苦しいことは体が自然に引き受けてくれるといいました。また、無痛覚症の項では痛みがないと私たちは体を守ることができないとも述べました。
苦しみから私たちを守る面と、苦しみを与える面。生命には不思議なことにこのようなふたつの顔があるのです。そのふたつがバランスを保ちながら多用な生命活動をしている。
生命とは何か、なぜ私たちは生まれてきたのかを理解するにはまず、このふたつの面によって生かされているということを受け入れる必要がありそうです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。