受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.41 「無力」の力 1
2022-08-05
鎌形(かまがた)赤血球症の患者さんが痛みに苦しんでいる場合、痛み止めとしてモルヒネを処方するのが一般的ですが、そのとき私は、「痛みがやわらぐまでここにいましょう」と、効き目が表れるまで患者さんのそばを離れないことがあります。すると、痛みに耐えながらも安心した表情を見せて、「先生、ありがとう」と感謝の言葉を返してくれる人がいます。
痛みが癒(いや)されるまで患者と共にいる。その行為はよそ目にはヒューマニズムにあふれた、格好よい振る舞いのように見えるかもしれません。しかし実は、「それ以上もうすることがない」という医学の非力を表してもいるのです。
そうした情緒的な行為などなくても、純粋に医学的な施療だけで患者さんの病気が完治し、精神的な不安を覚えることもなく、医師に対するお礼の言葉もことさら口にする必要もない。そうできるのであれば、それに越したことはありません。
けれども、現在の医療水準ではなかなかそれがむずかしい。だから、そばを離れないというのは同時に、それくらいしかやることがないという無力の表明でもあって、医療の現場からは、まだまだそういう場面がなくなりません。
人間というものは本当に無力な存在だと思います。
みなさんは抗がん剤を使うとがんになりやすい事実をご存じでしょうか。つまり、多くのがん薬は発がん性物質を含んだ化学薬品なので、使用によって当面のがんを抑えることができても、それが新たながんの引き金になってしまうリスクも、けっして小さくはないのです。
最近では、副作用の少ない薬も開発されていますが、抗がん剤から発がん性を完全に消去してしまうことはきわめてむずかしいテーマで、したがって、その使用にはがんの種類や症状、進行具合、タイミングなどに関して、とても慎重な見極めと判断が必要になってきます。
すなわち、薬はまた毒でもあって、それは医学がまだまだ不完全で、非力であることの証しといえましょう。また、格段の進歩を遂げたといわれる遺伝子工学のレベルをもってしても、たとえば、クローンのような命の複製(コピー)はつくり出せても、生命そのものを一から生み出すことは不可能です。
その生命も空気がなければ生きられないし、水がなければ生きられない。自然の営みと離れて単独で生存することはかないません。このコラムではくり返しお話ししてきましたが、自然の中で生かされていなければ、生命は生きられないのです。
こんな例をあげていけばきりがないほど、生命とは、人間とは、その可能性と同じくらい不可能性にもあふれた、ちっぽけで弱い、不完全かつ未完成な存在です。
しかし、その事実を、私は否定的な文脈だけでとらえているのではありません。その非力の自覚を通じて、私たちははじめて成長への手がかりを得ることができると思うからです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。