キム・ホンソンの三味一体
vol.178 「赦す」ということ
2022-09-30
キリスト教では赦すという行為が勧められています。しかし、一般の人々が想像するように、まるで道端でチラシを配るかのように無条件に赦しを乱発しなさい、という意味ではありません。相手を赦す行為についてイエスは以下のように言いました。
「もし誰かが罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:3−4)
仲間が自分や他の仲間に罪を犯したならば、まずは戒めることが必要で、それで自分の罪を深く反省し謝罪するのであれば赦しなさい、ということです。ここでキーとなるのは「悔い改める」、すなわち、深く反省し謝る気持ちがあるかどうかなのです。戒める前から自分の罪を認めて謝罪するケースももちろん赦すべきでしょう。私たちが人を戒める目的は、その人を裁いて断罪し、処罰するためではありません。あくまで悔い改めに導くためです。最終的にはその人を赦すためなのです。また、一日七回悔い改めるのであれば七回とも赦しなさい、とあります。当時のユダヤでは7という数字を完全数と呼んでいました。つまり、厳密に7回という意味ではなく、何度でも赦し続けなさい、とイエスは言っているのです。大いに寛大な態度ではありますが、あくまで赦しは罪を犯した側の悔い改めがなければ、赦すことができないものなのです。
随分前のことですが、あるマラソン大会で爆弾テロ攻撃があって、その大会に参加していた妻と子供を失った父親が、「そのテロリストを赦す。私が憎むことは彼の望むところだろう。思うようにはさせまい」と言ったようなことをソーシャルメディアに書いて話題になったことがあります。私もその話をニュースで読んですごいな、と思いつつ、正直、気持ちの上でも信仰の上でも私にはそれができない。できないから逆にホッとしたことがあります。むやみに人を傷つけて「お前はクリスチャンだから赦せ」と言われても悔い改めない相手を赦すことはできないのです。テロリストに妻と子供を犠牲にされた彼の立場に自分が置かれたと考えた時、私は心の中でそのテロリストが決して悔い改めないことを願うと思います。それが私の弱さです。しかし、悔い改めるのならば、どんなことであっても誰であっても赦さなければならないのが、イエスの教える赦しです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。