受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.74 どんなときも光を見いだせるのが本当の希望2
2023-03-31
昔行われた拷問に、広い土地に一メートル置きに杭(くい)を打たせていくものがあったといいます。硬い地面に杭を打つのはたいへんな重労働です。その重労働を必死に行い、やっとノルマを果たしたと思ったら、こんどは打った杭を順に抜かされていくのです。
ただ単に杭を打ち、抜く単純作業のくり返しで、しかも、その作業はどんな用途にも供されない。やっている行為は完全に無目的で、そこに一片の意味も価値も見いだせない。
巨大な岩を丘の上まで運んでは落とされるという過酷な罰を受けたシジフォスの神話さながらの行為ですが、こんなとき人間の心からは希望が消滅して、絶望に塗り込められることになります。
献体や臓器提供はこの逆の行為といえましょう。死後に自分の体を提供しても何の見返りも得られません。もちろん、提供された人からの感謝の言葉を提供者本人が耳にすることもありません。
しかし、そこには厳然とした目的や価値があります。そのたしかな「意味」が感じられるとき、たとえ死の病の床にあろうとも、人は心に希望を生じさせることができるのです。
人は弱くはかない存在ですが、同時に、病や死にさえも希望を見いだせる強く崇高な存在でもあることを、私は医師として多くの人たちの生と死を間近に見ながら、何度も実感してきました。
病気ではない状態、病気から治っていく状態だけを希望というのではありません。病気である状態の中にも明るい光の種があると信じられること。そのことを希望というのです。
そうした本当の意味での希望は、私たちの強さの証明です。その希望が私たちを支え、いっそう強く生きていく力を与えてくれるのです。そして、与えられ、生かされていることを自覚する中で、その力を分かち合える余裕が生まれ、さらにいのちが強くなる要素があるようです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。