マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.38 見極め (6)
2023-08-04
学校の勉強は現実に役立つ道具というより、世界観を手に入れるための手段である。けれども、各科目を学んでいけば最終的にミカンの実のように総合的な世界観が確立できるかと思いきや、実際には人それぞれリンゴやメロン、さらにはカボチャやネギやジャガイモのような、全く異なる価値観を持っている。自分と同じ世界観を持つ人を見つける方がはるかに難しい。なぜか?
世界観の「世界」とはなんでしょうか?「決まってるじゃない。目の前にある椅子とかテーブルとか、建物とか空とか、自分の外にあるものだよ」と答える人も多いでしょう。でも、椅子やテーブルや空は「世界」でしょうか?「ちがうよ。それら全て、自分を取り巻く環境の全てが世界だよ」と返事がありそうです。では、「環境」は「世界」なのでしょうか?例えばこのコラムをサンフランシスコのウエスタンアディションで読んでいる人がいるとします。その人が今いる部屋は「環境」ではあっても「世界」とは呼べません。その部屋がある建物も「世界」ではない。ウエスタンアディションも地区であって「世界」ではない。サンフランシスコも、アメリカも、北半球も、地球も、太陽系も、銀河系も、そして宇宙も「世界」とは呼べない。
「いや、宇宙は世界でしょう」と思うでしょうか。宇宙は「世界」ではありません。宇宙は物理法則に則って起きる現象の総体であって「世界」ではない。私たちは「世界観」という言葉を心理的・価値的要素も含めて使っています。「スピルバーグの世界観」というように。ということは、「世界」とは「全てを含むもの」という非常にあいまいで捉えどころがない意味を持つ。実際、私たちは「世界そのもの」を指し示すことはできません。この部屋は指し示せる。この家も、街も、国も、地球も、太陽系も、宇宙も。でも、「世界」だけは「これ」と指し示すことができない。
指し示すためには、指し示す者が指し示す対象の外にいなければなりません。「世界」が全てを含むものだとすると、その外に存在することは不可能です。だから「世界」を指し示すことはできない。哲学者マルクス・ガブリエルはこれを「世界は存在しない」と表現しています。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。