マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.43 壁(3)
2024-01-05
壁を挟んで睨み合い、同時に微笑み合うカルト教団と地域住民。どちらも両者の「本当の姿」だとすると、何が起きているのか。哲学者スラヴォイ・ジジェクはラカンの精神分析学を元に次のような理論を展開しています。
人間は言語を通じて他者と社会を形成します。ラカンは言語によって成立する社会的な構造を「象徴的秩序」と呼びました。これは「秩序」ですから、従うことで他者との意識疎通が可能になる便利なものなのですが、同時に問題も生じさせます。そのひとつが「大文字の他者」の存在。決して目の前に現れることはなくても私たちが存在を無意識に想定してしまう他者のことです。「小文字の他者」であれば「太郎さん」や「愛犬ジョン」など、個々の存在を確かめられますが、「大文字の他者」はそれができない。それでも想定せざるを得ない、そんな存在。そして私たちが心の奥底に秘めた感情を大文字の他者に「転移」、つまり肩代わりさせる作用がはたらきます。
この転移は信仰において顕著に表れます。すなわち、現代における信仰とは、自分自身が宗教的教義を本気で信じる必要はなく、どこか別の場所に大文字の他者として「本気で信じている主体」を想定して、自分はその他者から距離を取ることで成立します。「われわれはもはや『本気で信じて』はおらず、自分が属している共同体の『ライフスタイル』への敬意の一部として、たんに(さまざまな)宗教的儀式や行動に従っているにすぎない」とジジェクは言います。
クリスマスを盛大に祝い、数日後に新年を迎えると初詣に出かけ、京都に旅行すれば東寺にお参りし、教会で結婚式を挙げる私たち日本人にとって深く納得できる指摘ではないでしょうか。重要なのは、「ライフスタイルとしてするだけの自分」が「本気で信じている主体」から距離を保つことで、私たちは逆説的に「本気で」信じることができる、ということ。「ライフスタイルとしてするだけ」の日本人のうち、各宗教の御神体を火に投げ込こんで、またはその行為を想像するだけでも、心的ストレスを感じない人が何人いるでしょうか。
私がオウムの青年信者と地域住民との奇妙な対立に見出したのはこの転移構造です。 (続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

