キム・ホンソンの三味一体
vol.201 エキソシズム(悪霊払い)
2024-02-02
エキソシズムというと「悪霊払い」という日本語訳からしてホラー映画にでも出て来そうな場面を思い起こしてしまいがちですが、イエスの行ったエキソシズムは、本質的には人間の抱える内面の闇を取り除くものでした。聖書によるとイエスが安息日にある会堂で説教をしている時、そこに悪霊に憑かれた者がいて「我々にかまうな。我々を滅ぼしにきたのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだとあります。最終的にはイエスの「黙れ。この人から出て行け」という言葉によって悪霊は追い出されるのですが、ここに一つ疑問が残るのです。通常、悪霊に憑かれた者は村から離れたところに隔離され、会堂に近づくことはできません。しかし、この悪霊に憑かれた者は、強引に会堂に押し入って来たわけでもなく、最初から教えを聞くためそこにいた者だったのです。(マルコ1:23) ということは、ここで言わんとしている狂気とは、ホラー映画で観るような表面的な狂気ではなく、ごく一般的な普通の人の中に潜む「暗闇、罪」の問題なのかもしれません。
この罪というものに捕らえられている時、人間は聖なる神の力が自分のテリトリーに立ち入ることを嫌います。イエスが生まれる直前、ヘロデ王は、3人の博士を通して、神の子である救い主が生まれてくることを知りました。そして、律法学者らに調べさせて、救い主がベツレヘムに生まれる、とその場所まで分かったのです。その時のヘロデ王の反応は、会堂のあの男と同じものでした。「我々にかまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 ヘロデ王は神の聖者が来ることで権力者としての自分の立場が危ういものになるかも知れないと不安になったのです。そこで彼は救い主を殺してしまおうと、ベツレヘムでその年に生まれたすべての男の子を皆殺しにしたのです。人間の中に潜む悪霊、人間の罪の結果は、小さな悪事のレベルで終わることはありません。罪に捕らえられている人間の集団が、自分達にだけ都合のよい世界を築いていこうとする時、テロや暗殺、ジェノサイドや戦争が起こされるのです。そして、その罪の結果は、人類自身の滅びです。
平凡で些細な毎日を生きている私たちも内面に闇を抱え、罪に支配されることがあります。人の悪口や小さな嘘、人に対するごまかしや無関心、自分一人くらいならと思う甘えなどのちょっとした罪は、悪いと分かっていながらも止められない甘く心地の良いものなのです。しかし、そのように罪の支配を受けている自分を解放し、赦し、清めてくれる神の聖者の存在を知る人の心には救われた喜びが溢れます。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

