キム・ホンソンの三味一体
vol.202 祈ること、祈られること
2024-02-16
人はその生涯においてどれだけ多くの知識や経験を積んだとしても、どれだけすばらしい能力を身につけたとしても、加齢と共に徐々にそれらを失い、やがてはすべてを失ってしまいます。何もできなくなったとしても祈ることだけはできる、と言うクリスチャンもいますが、やがては祈ることもできなくなるというのが私たちの現実です。それではいよいよ自分では何一つできなくなった時、それまでの記憶も何もかも失って、後は死を待つばかりの時に人に残されたオプションとは何でしょうか。それは、他の人々から祈られること、覚えられることです。個人主義の影響もあってか、ともすると私たちは神と人間の関わりを「神と自分個人の関係」だと勘違いしがちです。しかし、本当は「神と私たちの関係」なのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」「あなたがたのために与えるわたしの体である。」と常に神は「あなたがた」と呼びかけたと聖書は言います。つまり自分が何もできなくなって時には、自分のために神に願ってくれる家族や友によって私たちには救いが与えられるのです。
聖書の中にもたくさんの例があります。イエスが異邦人の百人隊長の願いに答えて彼の僕(しもべ)を癒したり、カファルナウムの王の役人の息子を癒したり、または異邦人の女性の娘を癒し救ったことについて記されています。これらは全てイエスが当事者に会うことすらなしに、別の人の願いに応える形で癒し救ったケースです。その他にも、一つの村の病人をすべて癒したという大規模なものもありました。イエスが弟子のシモンとアンデレ兄弟の家に行った時に、高熱で苦しんでいるシモンの姑を癒したのを目撃した人々が、村中の人々に告げ知らせたのです。病気は罪の結果だから病人に触れるな。罪は移るものだ、と教えられていたがために助けを求めることもできず、病人を家の中に抱え込むしかなかった人々を気の毒に思った別の人々が、イエスに願い出たのです。病人を抱えるその家族の辛さに共感して、同じ父として、同じ母として、または、同じ夫や妻として彼らの痛みに共感して、イエスの元に連れてくるようにと告げ知らせたのです。その結果、病気の苦しみだけでなく、汚れた罪人としての烙印に苦しめられていた村中の人々が、シモンの家の戸口に集まりました。そして、イエスはその一人一人に触れて癒していったのです。
何もできなくなった時にも、他になんの選択肢も残されてない時にも、私たちにはできることがある。それは誰かのために祈り求めること、そして同じように誰かに祈ってもらうことです。みんなで互いの救いを願って祈り祈られる世界こそ、私たちの間にある神の国に他なりません。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。