キム・ホンソンの三味一体
vol.203 小さな死
2024-03-01
キリストは自ら十字架の死を遂げ、その三日後に復活した。そして、救い主のその受難と死こそ人類のための罪の贖いであったと信じることで救われる。つまり、キリスト同様、私たちの死も死で終わることなく、死のその先にある神の国にて永遠の命を生きることができる。これがキリスト教信仰の核心となる内容です。しかし、ここに二重の意味があることはあまり知られていません。そのもう一つの意味は、この信仰を持つ者はキリストが自分のために十字架の死を遂げたように、自分も他者のために日々「小さな死」を遂げる生き方をする。そのことで死後に経験するであろう永遠の命を、地上にいながら「心の救い」として先取りし味わうことができる、というものです。そして、ここでいう「小さな死」というのは、自分の選択で誰かのために自分の時間や労力などのリソースを何の見返りも求めずに使うということです。いわば他者のために自分が損をし犠牲を払うことを厭わない態度、行動のことです。
民衆の圧倒的な支持を受けていたイエスを妬み憎んだ宗教指導者達、暴動を起こされて本国から責任を追及されることを恐れていたローマ総督ピラト、そして、ローマからの独立を求めていたのに武力を使おうとしないイエスに失望した民衆によってキリストは十字架にかかりました。そして、これらの人々の根底には共通して自己中心というものがあったのです。自分たちの権力と地位さえ確保できるのであれば、自分さえ責任追及を受けないで済むのであれば、自分たちの民族さえ自由になるのであれば、という自己中心な思い。これをイエスは罪に支配されている人間の現実だと見抜いたのです。そして、その罪の連鎖を断ち切る形で、イエスは自ら十字架にかかり人類の罪を贖いました。そしてこれらの言葉をもって罪の力から解放された人生を生きなさい、と私たちを招くのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)自分を捨て、自分の十字架を背負って生きるということは、誰かのために自分の何かを犠牲にする生き方です。
生きていく中、私たちは何かの力に支配され否応なしに互いに競い合い、奪い合い、時には愛している大切な人をも傷つけてしまうことがあります。しかし、自己中心という罪の支配を受けながらの歩みにおいても、イエスの「大きな死」に倣って、私たちも時々「小さな死」を遂げることができるのです。他者のために自分を捨てることができた時、罪の力から解放された時、心は、今まで知らなかった喜びと感謝に満たされるのです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。