キム・ホンソンの三味一体
vol.205 “幸せ”からの解放
2024-04-05
イエスの時代において、上位1%ともいえる宗教指導者たちは、律法を守りぬくことでのみ救われると人々に教えていました。しかし、現実には働いてはならない安息日にも働かざるを得なかった貧しい人々も多くいたのです。また、当時の社会において貧しさ、体の障がい、病などを抱えている人々は、罪の結果であり、不幸な人生の典型だと蔑まれていました。しかし、イエスはこれらの社会通念に反して、罪人だとされているこれらの人々こそ神の憐れみによって救われる、と説いたのです。
どの時代にも人間は自分さえ良ければ、自分の家族さえ良ければ、という自己中心の生き方の中にこそ幸せがあると思い込むところがあるのではないでしょうか。当時の宗教指導者たちも、神から祝福され律法を守り抜くことのできる自分たちは幸せに違いない。律法が守れない者どもは自分自身を呪うが良い、と自分さえ良ければを通していました。しかし、それとは真逆のことをいう者が出てきて、しかも人々から熱烈な支持を受けていることに焦りを感じた彼らは、結局イエス殺しを実行したのです。
私たちの社会にも同じ側面があるのではないでしょうか。子供から大人まで社会によってセットされた「幸せな人生とはこうだ」を目指して競争を繰り返し、勝ち抜けるものなら人をも蹴落とし、みんなが幸せを勝ち取るためにあくせくと生きているのです。イエスは、自分自身を不幸にし、大事な人をも傷つけるように駆り立てるものこそ人間の中に潜む「罪」であると示し、その罪からの解放によって本当の幸せ、救いに至るのだと説いたのです。
まずは、この世が私たちに教える「幸せというのはこうだ」、というのに対して、疑問を持つことから、私たちの罪の束縛からの解放の歩みが始まります。たとえ仕事がクビになっても、事故で体に障がいを抱えるようになっても、あと余命数ヶ月だと宣告されたとしても、この世が押し付ける幸せの基準からどれだけ外れていても、問題といわれるようなものを抱えたまま、私達は救われることができるのです。救いは、イエスが人々の罪に代わって自分の命を犠牲にしたように、自分さえ良ければを捨てる生き方の中にあります。自分の欲を捨ててわずかであっても他者のために自分を犠牲にできる時、私たちは自己中心の束縛から自由になり、もはや争うことも自分を責めることもなく、人を犠牲にしなくても良い人生、イエスが指し示す喜びと平和に満ちた人生を歩むことができるのです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。