キム・ホンソンの三味一体
vol.206 もう一つの“復活”
2024-04-19
先日、私たちと同じルーテル教団に属するある教会の牧師と話す機会がありました。驚くことに最近その牧師の教会がベネズエラ政府の弾圧から逃れて来た亡命希望者夫婦を匿っているとのことでした。大変だなと思いながらもアメリカに来られて本当に良かったと思いました。しかし、その夫婦は普段ほとんど外に出たがらないで建物の中にじっとしているのだそうです。その牧師によると、その理由はアメリカにいるベネズエラ出身者の中に自分達を弾圧する側の人々がいて、それらの人々からの襲撃を恐れているのだそうです。
2000年前にも同じことがありました。イエスが政治犯として処刑された時、イエスの弟子達は同じく処刑されることを恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。そして、家に鍵をかけて隠れていたのです。ところがイエスが処刑されてから3日後の日曜日にイエスの墓に行ったマグダラのマリアが復活したイエスに会ったと言うのです。それを聞いた弟子達は益々複雑な心境になりました。鍵のかかった扉の外には自分達を捕えようとする敵が、そして扉の内側にはイエスを裏切った後悔が益々彼らを苦しめ始めたのです。今さらイエスに合わせる顔がないのです。このように大きな不安と恐れの中にいた弟子たちの只中に、いつしかイエスは来て彼らの真ん中に立ちました。そして彼らがこれ以上罪悪感に苦しまないようにと心の平安を願って語りかけ祝福しました。
主イエスと一緒に死のうではないか、と誓いつつも一番肝心なところで逃げ出したことは、彼らにとって決して消えることのない罪悪感であり重荷でした。その決して赦されるはずのない自分達へとイエスの方から近づき一生背負い続けるはずだった重荷を外してくださったのです。復活したイエスとの再会、そして、弟子達へと語られたイエスの祝福の言葉は、結果的に弟子達の信仰を復活させます。その後、彼らは自ら扉の鍵をはずし外へと出て行くのです。しかし、扉の外の状況は、何一つ変わっていませんでした。彼らを待ち伏せている敵も、彼らを取り巻く状況も、何一つ変わっていない中、唯一変わっていたのは彼ら自身だったのです。それ後の彼らの殉教をも恐れない布教活動によって今の私たちの教会があります。そして、亡命者を匿うことでそれに反対する人々からの非難と嫌がらせを恐れずに、ただその亡命者の体と心の平安を願い、彼らの“復活”を祈る勇敢な牧師が存在するのです。
人生のあらゆる問題、悩み、病を抱えて、苦しみの真っただ中にあるとしても、希望をもって今日もまた扉を開いて歩み出すことができる力は、私たちの努力で勝ち取るものではありません。あくまで恵みによって与えられるものです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

