キム・ホンソンの三味一体
vol.207 自由と解放の書物
2024-05-03
一般の人々がキリスト教と聞いて一番先に頭に浮かぶものはおそらく聖書ではないでしょうか。人類の贖罪を果たしたキリストイエスの教えを書き記した書物ですからキリスト教の聖典に間違いありません。では同じく一般の人々が聖書と聞いて真っ先に浮かぶイメージとはなんでしょうか。間違いなく「〜してはならない」的な自由のない窮屈なイメージではないでしょうか。確かに聖書にはモーセの十戒をはじめレビ記の神聖法集など、してはならないことや触れてはならないものについて事細かく書かれています。ではクリスチャンは聖書に書かれていることをすべて守らなければならないのか、というと“そうだ”、“そうでない”以前に世界中にそれらすべてを守れているクリスチャンは一人もいない、というのが事実です。特に日本人となると食習慣だけを考えても聖書に書かれていることを守ることはほぼ不可能に近いのではないでしょうか。聖書には食べることのできる動物に関して、ひづめが別れていて反芻する動物のみとなっています。代表的なのが牛、羊、ヤギです。ということは豚や馬は食べてはならないのです。トンカツや馬刺しはあきらめねばなりません。それだけではありません。川や海のものでは、うろこがあるもののみ食べて良いことになっています。よってカツオ、鯖、穴子、ウナギ、イカ、タコ、海老、そして、すべての貝類とカニ類などの海の幸を一つも食べてはならないということになるのです。それではどうしてクリスチャンたちはこれらを守らないまま自らをクリスチャンだと自負することが可能なのか。それはイエス自らが聖書に書かれた罪を罪でないと宣言したからです。
イエスの時代において、宗教指導者達には神の民を預かってケアする役割が与えられていました。しかし、彼らは民を愛する神の心を汲み取ろうとはせずに、ただ律法を守るという表面的なことだけを人々に要求したのです。その結果、貧し過ぎて働いてはならない安息日にも働かざるを得なかった人々をはじめ、律法を守れずに罪人と烙印を押される多くの人々が見捨てられ絶望の中を生きていました。そのような中、イエスは、安息日に多くの人々が見る前で掟を破って人を癒しました。そして宗教指導者達にこう宣言したのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27) 皮肉にもこのことが、宗教指導者達によるイエス殺しの切っ掛けなのです。しかし、イエスが十字架の死から三日目に復活したことによって、神の心は人々を裁くところではなく愛するところにあると証明され、それを信じるすべての人に死を含む世のすべての束縛からの解放が宣言されたのです。
イエスというレンズを通して読む聖書は、人を赦し癒す自由と解放の書物です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

