キム・ホンソンの三味一体
vol.217 一人の盲人の叫び
2024-11-01
聖書の中にバルティマイという名の盲人のことが書かれています。彼とイエスとの出会いは、彼が道端で物乞いをしている時でした。イエスが道を通ることを知った彼は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」と叫んだのです。周りにいた人々が彼を黙らそうとしますが、それは彼が何の役にも立たない、何の価値もないただの「盲人の物乞い」だったからです。しかし、イエスは彼の声を聞いて立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言ったのです。するとバルティマイは、躍り上がってイエスのところに行きます。 当時、障がいがあるということは先祖か自分が犯した罪の結果だとされていました。彼もそのようなことを言われてきたのでしょう。家族の中でも直接言われることはないけれども、何も出来ない者、存在そのものが家に負担をかける者と思われていたことを彼は知っていたし、そのことを認めざるを得なかったと思います。だからこそ、せめて自分の食いぶちでも稼ぐために毎日、町の通りに座って物乞いをしていたのです。
彼の「憐れんでください」という叫びの背後には、彼が背負って来たそれまでの苦しみ、苦悩、悲しみがあるように思います。「人々が言うように私か先祖の罪の結果として、当然の報いを受けているのかも知れません。生きていること自体が家族に迷惑をかけていることだとよく知っています。何の役にも立たない、何の価値もない者に過ぎません。しかし、憐れんでいただきたいのです。こんな私を憐れんでいただきたいのです。」彼のこの叫びを聞いてイエスは立ち止まって彼を呼びました。そして、彼の存在は生きる価値のある存在、神の愛に価する存在と言わんばかりに彼の目を癒したのです。
誰もが命の終わりに近づくと、自分では何もできない、何の役にも立たない無価値な者となってしまいます。家族がいてもいなくても、お金がたくさんあってもなくても、弱り果ててやがて土に帰る存在には変わりないのです。そんな時、声にもならない自分の声を聞いて立ち止まってくれる存在について知ることは大きな慰めです。人生の中で一番大切なことは、赦しを乞う者を赦し、慰めを求める者を慰め、一人一人をありのままに神の愛に価する存在として受け入れ、けして一人にしない憐れみの神の存在を知ることではないでしょうか。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。