キム・ホンソンの三味一体
vol.222 なぜ敵を愛すのか
2025-02-28
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」(ルカ6:27−30)
これは前回のイエスの名説教の続きです。イエスは当時の社会の中で疎外され虐げられていた最底辺の貧しい人々に対して敵を愛しなさい、と言いました。この時の「敵」とは、奴隷主、律法学者、神殿の祭司など、これらの社会の最底辺の人々が物理的に、または精神的に抑圧を受けていた権力者たちだったと思われます。普段から人々の痛みに共感してそれらの権力者たちを厳しく批判していたイエスならば、人々に立ち上がって敵から自分たちの尊厳を守りなさい、と言ってもおかしくなかったはずです。しかし、なぜかここではそれらの人々を愛し、頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい、と言ったのです。当時、頬を打つことは相手を侮辱する最もひどい行為だったと言われます。そして、多くの場合、頬を打たれたのは身分の低い者や奴隷でした。そのため、身分の高い者が低い者に行う仕打ちだったと言われます。頬を打たれそうになった時に抵抗をすれば、更に酷い仕打ちを受ける、下手をすれば殺される可能性だってあるのです。イエスは、教えを聞きに来た人々に対して、敵を愛しなさいという言葉でもって、たとえ無様であってもプライドなどは捨てて何が何でも生き抜きなさい、と言っているのです。そして、ここで生き抜くという意味は、惨めで辛い思いを我慢しながら生きる、ということではなく、むしろそれらから解放されて生きなさい、という意味です。
実はイエス自身の生き方がまさにそうでした。イエスが、人々から憎まれる徴税人らと共に食事をした時、律法学者たちは、イエスを指して「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と嘲りました。悪霊に取りつかれた者を癒された時には、人々から「悪魔の頭」と悪口をいわれました。最終的に、人類の救いのため十字架を背負った時には、人々から罵倒され唾を吐きかけられました。人々を愛し抜いたイエスが得たものは、痛みや苦しみ、嘲笑や屈辱のみでした。にもかかわらず、イエスは自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分達が何をしているのか分からないのです」と神に祈ったのです。
自分の魂がむしばまれるのは、人から受けた憎しみではなくして、自分が人に対して持ってしまう憎しみ、そして復讐心ではないでしょうか。敵をも赦し愛すことのできる者の魂を壊すことは不可能です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

